「一度きりの大泉の話」を読んだからには読んでおかないといけない本がある。
それは竹宮恵子さんが書いた「少年の名はジルベール」
そう思って読みました。
「一度きりの大泉の話」を読んでから読むと、最初からして驚く。
ものすごく最初から萩尾望都さんの名前が出てくる。とても出てくる。
ちょっとまって、大泉本で萩尾望都さんのマネージャーの城さんが「仮に萩尾望都が登場するにしても数行にとどめてほしい」と言ったという情報を得ていたのでこんなにみっちり登場するとは思っていなかった。
読み終わって、読みやすいのは「少年の名はジルベール」だなと思います。
こちらはなんていうかわかりやすい。少女漫画に革命を起こそうとした竹宮恵子さんの自伝としてよくまとまっている。綺麗にまとまっている。
ただ、大泉本を読んでから読むと、なんていうか気持ち悪い。もやもやする。
書かれていないことがたくさんある。サラッと流されたそこが知りたい。
そして視点が違えばこれだけ物事は違うのかという思いが強くてクラクラする。
「少年の名はジルベール」を読んだ覚書感想メモ
私は大泉本を読んでからこの「少年の名はジルベール」を読みはじめたので、冒頭を少し読んで、
けっこうはじめから萩尾望都の名前が登場していて驚いた。
24年組。大泉サロンという名称もさらっと当然のように出てくる。
その時代を懐かしみ生き生きと整然と道筋をつけて語られている。
物語の構成としてはこちらの方がとてもわかりやすい。
苦悩の中、成功を掴むまでのサクセスストーリーとしてとても良くまとまっている。
増山さんの存在感の大きさ
大泉本を読んでから読むので、出てきたなって感じで読んでしまう。
竹宮さん視点で語られる増山さんは萩尾さん視点で語られる増山さんよりもさらに存在感が強い。
とてもこうなんていうかとてもキーパーソンなことはわかる。文化的資質の高い人。
そして、城さんが書かれたエピソードが脳裏にあるとどうもこう読み方が偏ってしまって、正直に言うと、なんというかうざい。
漫画を描かないけれど影響力が強すぎてとてもびっくりする。
そして、最後まで読むと、さらっと竹宮さんのマネージャーを妹さんと交代したあたりから関係が薄いのかなっという感じになる。
最後に今なら関係をどう呼ぶだろうと想像しているけれど、想像するだけで本人に確認できない間柄なのかなっと思うわけです。
追記 増山さんはジルベールを読んでいない?
少し気になる記事を読んだので、追記します。
中川右介さんという方の『萩尾望都と竹宮惠子 大泉サロンの少女マンガ革命』という本の中に増山さんのコメントがあるようです。
そこで、増山さんは萩尾望都さんと竹宮恵子さんの別れについて「知らなかった」と述べ、「少年の名はジルベール」を読んでもいなさそうだったと書かれているようです。
自分についてここまで書かれた本を読んでいない? あのときのことを知らない?
疑問が残ります。
呼び方にひっかかる
モーサマ、ケーコタン、のんタン?
大泉時代、お互いに愛称で呼び合っている描写が出てくるのだけれど、萩尾望都さんだけ「サマ」なんですよね。
タンとサマにはけっこうな違いがあるように思います。
なんかもうこの呼称の違いとか些細な点にビクビクしながら読みすすめてしまう。
あの日がいつ来るのかと思いながら。
山本さん像はぶれない感じ
編集者の山本さんの印象は、大泉本でもジルベールでも同じような感じですね。
大雑把な感じながらも面倒見はいい感じで。
ただ、ジルベールで語られている「萩尾望都ならなんでも載せる」っていうのと、大泉本での「おまえなんかいらないんだよ」って言葉がつながらない感じ。
大泉でのこの言葉も唐突に出ていて、その後フォローもないのでどういう意図で言われたのかさっぱりわからない。
山本さんに関する感情がちょっと竹宮恵子さんはこじれちゃっている気がする。
関係者の高齢化
どっちの本を読んでいても関係者がぽろぽろとお亡くなりになっているので、当時のことをよく知る人はもう数が少ないのだろうし、いたとしてもそれこそ50年前の記憶なわけで。
別の角度から当時のことを知りたいと思っても、もう証言できる人がいない状況なんでしょうね。
いたとしても伝聞で、あの時そう言っていたと聞いたことがある。みたいな感じなっちゃう。
ヨーロッパ旅行の話は楽しい
読んでいてヨーロッパ旅行の話はやはり楽しい。
あの時代に女性4人で長期でヨーロッパに行くってすごいことだなぁ。
行くことになった経緯や各人の反応については大泉本と差異がある気はするけれど、その時くらいにはもう三人の意思疎通は微妙になっていたのだろうか。
ホテルの部屋の関係かもしれないけれど、山岸さんが参加してくれていて良かった。
トマトとパンが美味しそうでいいなぁ。
建物の壁の厚みや門の高さ、窓の作りをよく観察しているのが漫画家さんだなぁと思う。
薔薇の花びらも違うのね。
三行で書かれる別れ
少年の名はジルベールの中で、萩尾望都さんと距離を置きたいと告げる場面は三行で描写されている。
たった三行。距離を置きたいというような趣旨のことを述べたと記される。
ここで城マネージャーさんの言葉が思い出される。
「仮に萩尾望都が登場するにしても数行にとどめてほしい」
萩尾望都さんに関することは数行どころではなかった。けれど萩尾望都さんとの別れについては数行に留められている。
ここに書かれていないことが、大泉本では語られている。
風と木の詩を描くまでの軌跡
風と木の詩を描きたいという気持ちでファラオの墓を描いたのね。
なんていうか、戦略的にアンケート1位を取るためになりふり構わずにやったことが、あがいたことで道が開かれていく。
読みものとして面白く読みました。
ファラオの墓のファンの人がここを読んだ場合、微妙な気持ちになるだろうなぁ。
脚本を学ぶことの重要さを自覚し、教鞭を取ることになった時にそれを伝えることにしているっていうのはなかなかいい話ですね。
締め切りを騙してくれって話はちょっと笑った。
こんにちは、そして、さようなら
本の最後を「こんにちは、そして、さようなら」と結ぶのであれば、そのさようならについてもう少しきちんと書いてほしかったと思う。
萩尾望都さんとそして増山法恵さんとの別離について、私は竹宮恵子さんの言葉で詳細に聞きたい。
追記
萩尾望都さんと距離を置きたいと言った時のことについて、インタビューでもう少しだけ詳しく書かれているのを読みました。
このインタビューでは、
どうしようもなくなった竹宮さんは、萩尾さんに「距離を置きたい」という趣旨の言葉を告げる。
「私は初めてそういうことをストレートに言うわけですから、結構気を使って、最初に言った日だけじゃなく、何日か経って萩尾さんのところに訪ねて行って、もうちょっと長い時間をかけて話をしたりってことをしたんです。本当に申し訳ないけど離れなければならない、全然別にあなたが悪いわけじゃないんだけど、と。自分が自分を守るためにせざるを得ないことなんだ、というふうに説明したと思います。
と書かれています。
大泉本と読む比べると明らかな差異ですね。
記憶は改ざんされるもの
記憶は不思議なもので、どんなに詳細に覚えていると思っていてもどんどん自分の中で変わってしまうものだと思う。
何度も何度も思い出すあの場面というのが誰にもである。
それは再生されるたびに自分が見たいように変わっていく。
そんな風に、竹宮恵子さんの中で色々処理されている部分があるのだろうなというのが読了しての感想です。
これは萩尾望都さんも同じで、あまりに衝撃的で、覚えていない事があると言っているし、凍らせていたからこそ、解凍した時により鮮明なのだとは思うのだけれど、それも50年前の出来事で。
その時のことを周りの方に確認もしているけれど、その方たちもはっきりと覚えている事は少ないのではないか。
自分の中の真実と、他人の中にある真実は違う。感じ方は違う。その時の見方も違う。
この2冊の本を読むと、誰もが自分の中の深く沈めた思いを思い出して考え込んでしまうのではないか。
私は「一度きりの大泉の話」を読んだ後夢を見ました。忘れたい思い出の。
多分、「少年の名はジルベール」を読んだ今夜も夢を見るのだと思います。これらはそんな本です。